恥ずかしいな、と反省すること

capibara散歩日記

2009年08月21日 16:15

戦後64年。

8月6日は広島
8月9日は長崎

そして、
8月15日は、第2次世界大戦終戦記念日


今月、そのころの日付は、家でダラダラしていたはずだ。
なのに、何の思いをはせることもせずにいた。
今更、そんなことを思った。


今、何気なく、「戦後64年」とヤフーでキーワード検索してみると、
掲示板のようにいろいろな書き込みができるページで、知識も議論も浅いある意味では
若者らしい(?)内容がたくさん出てきた。決して、若者が書いていないとは思うけれど。
ほとんど、相手にするような内容じゃないな、と。あまりの浅はかさに、嫌気をさしていたが、、、

ひとつの問いかけに引っ掛かってしまった。

それは
「愛国心を持って何が悪い?」というものだった。

その問いの問いかけが何を意味しているのか、読めなかった自分がいた。
愛国心を否定する気は無いが、
国家の意味する「愛国心」と
国民が口にする「愛国心」と
個人がいう「愛国心」は

すべて違う気がするのだ。

愛国心を「日本という国に生まれた自信(プライド)」と意味するなら、持ちたいと思うし、それは個人のアイディンティティを確立するためにも、とても重要なものだと思われる。自分自身の人生観にも通じてくるから。

が、しかし、例えば
「愛する国を、攻撃されたらしっかりと守る」
とかになると、ちょっと違う話になる。

家族を愛し守るように、国という単位を守れ、というのは僕にとってリアリティーがない。
第一、家族がいないし。
ここで使われる「国」という意味は、たぶん「国家」の体制のことで、「国民」のことではないからだ。

さっきみたサイトで並べられていた浅はかな議論で御託を並べてらっしゃる方々は、何不自由なく無関心で生きてきてこれた、ある意味幸せな(というよりめでたい)人たちなんだな、と思う。これも偏見だけど。
そこに書き込まれていた内容を見て、
「愛国心」でもなんでも、とっても繊細なトピックスに関して、解釈の数が少ない議論には危険を感じる。

個々の立場や考えを無視していく言葉の投げ合いが、結果的には言葉の意味をすり替えられた時に、太刀打ちできず、国家の敷いたレールの上を走り、自らの命を戦場に落とす、また他の人間の命を殺める立場になっていくのだと思う。

そもそも嫌いなことだだけど、「愛国心」という言葉が、戦場で人を殺すことという意味にすり替えられないように、ネット上でももっと多様な議論が展開されていけばいいのにな。


戦後64年。
僕は25歳。

僕は戦争のことを知らない。
しかし、身近にまだ終わっていない戦争があるのだと知ってからは、「知らない」ことにたいする気持ちが変わったと思う。
戦争で苦しむ人たちが、ここ沖縄にはまだたくさんいる。

でも、彼らはもう高齢で、やがて命を全うする。
その時、僕らは、どんな言葉で、どんな角度で、何を議論し、何を問題視し、何を伝えていけるのか。

まだまだ考えないといけないことが多いなぁ。